水野明善著『浅草橋場・すみだ川』

1986年・新日本出版社)より引用

 

『浅草橋場・すみだ川』
『浅草橋場・すみだ川』

解説この本は著者の自伝であり、遺作。水野明善は1917年浅草の橋場(はしば)生まれ。父親の水野一善は震災の年の始めには、のちの特高、当時の高等警察官になっていたが、震災当時は弟の急死で橋場の窯業を継いでいた。浅草の有力者で警防団長でもあった。(のちに浅草区議に)。

「敗戦の年をさかのぼること23年。1923年9月1

生家の浅草橋場から北東へ約2キロ半、隅田川をこえて、荒川放水路にかかる旧四ツ木橋の西詰。その夜半、わが家の方向にあたる向島側から人々の異様なけたたましいばかりのざわめきが近づいてきた。私は極度の疲れでぐっすり眠っていた。目がさめた。疲れと興奮とでウトウトしていた。荒川の河川敷に橋桁をたよりに蚊帳を吊って、その蚊帳ばりのなかで息をこらす私たち、母と生後十日足らずの未妹・秀子、そして6歳になる私。母子にはその異様の極限ともいうべきざわめきが何を意味するか、まったく見当がつかない。

 

《血よ、血よ》。私の目はパチッと開いた。母はも1本、もう1本とマッチをつけた。橋上から滴り落ちる液体が蚊帳を伝わる。赤褐色。血だ。私には、阿鼻叫喚のなかに《アイゴー》《哀号》 と泣き叫ぶ声がまじっていようなど、聞きわける分別などあろうはずもなかった。やがて蒲団の上の白い毛布に、はっきりその血痕が印されている。私はただただ震えおののいた。母も私の両手をにぎり、やがて上半身をしっかり抱きしめ、身震いが止まらない。その身震いが、そのまま、私に伝わった。

生涯、私が母に暖かくも冷たくも抱かれた記憶は、この時、ただ一度だけである。

やがて、暫くして父がもどってきた。

《おい、津る、明善はどこだ?》 ・・・ 《やった、やったぞ、鮮人めら十数人を血祭りにあげた。不逞鮮人めらアカの奴と一緒になりやがって。まだ油断ならん。いいか、元気でがんばるんだぞ。》

そういうなり向島側に駆け戻っていった。炎を背に父のシルエットが鮮やかだった。

6歳の私の耳には“鮮人”の意味も“アカ”の意味も当然わかりっこなかったが、ただ、蚊帳のなかの白布にたれた赤い血の色が連想されて、‘アカ’と父が云ったことだけは鮮烈に記憶に残っている。」   (中略‥・避難時の回想。1日夕方避難を開始。白髭橋を渡り向島方面へ)「ようやくのことに、まだ木橋であった四ツ木橋西詰の土手にたどりついたのは、日がくれようという一瞬のことであった。河川敷に車をおろし、橋桁下に蚊帳をつり、その蚊帳のなかに身を横たえた。父だけは飛び出していったきり、戻ってこない。かなりたって、血走ったような父が、一度戻ってきた。そして云ったそうだ―というのは、この記憶は私になく、後年母から聴いたもの―、《覚悟しておけよ。これから凄じいことが起るが、決して取り乱すな。》 こう父は云って向島側に走り去った、ということである。

そして、あの阿鼻叫喚、赤血のしたたり。

四ツ木橋下での恐怖の一夜、非人道そのものといえる一夜をへて、翌朝、渡った四ツ木橋の所々方々に見受けられた血塊が無残であった。」